読書記録、たまに日常生活

本を読んで考えたことについてネタバレしないように紹介しようと思います。たまに日常生活について発信していきます。毎日19時に投稿します。

期待に応えられない

今回は重松清さんの「希望ヶ丘の人々」という話を読んで考えたことを書こうと思います。こちらの話は上下巻があるので上巻についての感想を書きます。

 

 

 

☆内容

 私は中学生の娘・美嘉と小学生の息子・亮太とともに、2年前に亡くなった妻のふるさと「希望ヶ丘」に戻ってきた。ここから再出発だ―そう思って開いた塾には人が集まらず、亮太は亡き母の思い出を探しつづけ、美嘉は学校になじめない。昔の妻を知る人が住むこのニュータウンに、希望はあるのだろうか。(裏表紙より)

 

 

☆人生は誰のものか

 この話の舞台は勉強に力を入れる人の多い町。中学受験をするのは当たり前、良い学校に行って、良い職場で働く、結婚して幸せな家族を築く―幸せの固定概念みたいなものを子供に期待する。そんな人々が多い町での話です。

 

 そんな家庭で育った登場人物の一人が言った言葉。

「直接何か言われたりしたわけじゃなくても、わかるんスよ、オレ、かあちゃんから見限られたんだよなってのが―」

この登場人物は祖父が厳格な書道家で後を継がせるために鉛筆やクレヨンを持たせる前から筆を持たせ、幼いころは一日中書道をやらされていた。そのおかげか、才能があったのかはわからないが、小学校でも学校のコンクールで毎回賞をとるし、中学生の時も市内のコンクールでは絶対に入賞以上をとる腕前の持ち主。でも祖父からはほめてもらえない。中学受験をするも希望の学校どころか、滑り止めの学校にも受からず公立の学校に進学。祖母は中学受験に落ちたくらいで人生の終わりではないし、字を書くのがうまいのだからいいじゃないといってくれる。しかし、母親は中学受験に落ちたことが人生の終わりであることのように深刻に受け止めるし、字がうまくても高校受験や大学受験には関係ないのだからと認めてはくれない。そんな環境が嫌になって、中学一年生のころから、不良仲間とつるむようにり、高校を中退して、家出していった。

 

別に母親に認めてもらう必要はないんですよね。自分の人生なんだから。でもどうしても大切に育ててくれて、一番身近でお世話をしてくれている母親の期待にこたえたいと思ってしまう。「世間」という目が自分のことをどう思うかを気にしてしまう―

それで居場所がなくなってどんどん苦しい思いが積もっていくんですよね。自分とはないかを見失ってしまうんですよね。

 

子供を虐待して殺害したというニュースを目にする機会がありますが、親が大切に育ててくれるからの悩みなのかもしれません。

 

私も、大学生のくせに人生がまだ他人のものです。どうしたら自分のものにできるのか、考えなければいけないと思いつつまだ解決できていません…。

 

本日も残りわずかですが皆様にとって良い時間にないりますように☆